アイリッシュ・ハープの歴史 寺本圭佑
「アイリッシュ・ハープの揺籃期」 9世紀から11世紀ころ
ハープの起源は、古代エジプト、シュメール文明にまでさかのぼり、遅くとも紀元前2800年ころから存在していました。それらの古いハープにはすべて「支柱」がありませんでした(古代ギリシャでは支柱のあるハープも知られていましたが、後世まで伝えられることなく姿を消しました)。
現存する最古の「支柱のある三角形のハープ」の図像資料のひとつは、スコットランドにいたピクト人が8世紀か9世紀ころに作った石の彫刻にみられます。一方アイルランドでは、9世紀頃でもまだ四角い弦楽器が演奏されており、三角形のハープは演奏されていませんでした。
ようやく11世紀に、三角形のハープが描かれるようになりました。ダビデが膝の上で小さなハープを奏でています。私が製作している楽器はこの最初期のアイリッシュ・ハープをイメージしています。
最初、アイルランドではハープを cruit と呼んでいましたが、のちに、Clairseach と呼ぶようになりました。
アイルランド神話の「善き神」ダグダのハープ奏者ウイヘはハープのふしぎな魔力を利用して、敵である巨人のフォモール族を倒しました。ダグダはウイヘの功績をたたえ、ハープで3種の音楽を奏でました。鉄の弦からは眠りの音楽(子守歌)、真鍮の弦からは笑いの音楽(ダンス音楽)、銀の弦からは涙の音楽(ラメント)が生まれ、すべてのアイルランド音楽の源となったと伝わっています。
他国のハープには通常羊の腸をより合わせたガット弦が使われていたのに対して、アイリッシュ・ハープは金属弦だったことが最大の特徴です。その音色は「妖精の鐘の音色」にたとえられていました。
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ピクト人のハープ
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アイルランドのティンパン
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聖マドックのハープ
「卓越した演奏技法の描写」12世紀ころ
アイルランド人によるアイリッシュ・ハープの卓越した演奏は、12世紀のウェールズの聖職者ギラルドゥス・カンブレンシスによって次のように描写されています。
「この民が熱心におこなうことでは楽器演奏だけが賞賛に値すると思う。これに関してはわれわれが知っている民の中で断然優れている。われわれに馴染み深いブリタニアの曲のように長くゆっくりしておらず、実に速く、旋律は甘く快い。彼らがひじょうにすばやく指をあやつるのに音楽的調和が乱れないのには驚かされる。またどの点をとっても完全な技芸によって、複雑な形式の、ゆたかで複雑なポリフォニーの中、心地良い速度で、異なるものが一緒になり、不調和のものが調和して、旋律が共鳴し仕上げられることにも」(有光秀行訳)。
また「アイルランドの司教や修道院長、聖人はどこへ行くにもハープを携え、敬虔な気持ちでそれを奏でて楽しむのを常とする」とも書いており、やはり小さくてどこにでも持ち運べる楽器が演奏されていたようです。
「現存する最古のアイリッシュ・ハープの実例」14世紀から16世紀ころ
14世紀ころに演奏されていた最古のアイリッシュ・ハープの実例が現存しています。この29弦のハープは、18世紀後半にアイルランドのリムリックで発見され、現在ダブリンのトリニティ・カレッジに保存されています。
曲がった支柱、金属弦、ネックと支柱の継ぎ目がT字型になっているのがアイリッシュ・ハープの特徴です。共鳴胴は柳などの1本の木をくりぬいて作られており、背面は木の板で閉じられています。金属弦の張力で共鳴胴を破損しないために、弦を通す穴には蹄鉄型の金属が打ちつけられています。また伝統的なアイリッシュ・ハープには「姉妹」と呼ばれるユニゾンで調弦される弦が存在しました。
トリニティ・カレッジのハープと同様の構造をもった楽器が、スコットランドでも演奏されていました。クイーン・メアリ・ハープとラモント・ハープがそれです。これらは、アイルランドとスコットランドのハープの親近性を示すものです。当時の人々は自分のハープに宝石やクリスタルをちりばめて装飾していたといいます。
16世紀のヘンリー8世の時代には、アイリッシュ・ハープが紋章や硬貨のデザインに用いられ、すでにアイルランドの象徴になっていました。
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クイーン・メアリ・ハープ
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トリニティ・カレッジ・ハープ
「アイリッシュ・ハープの黄金時代」 16世紀後半から17世紀前半
16世紀後半から17世紀前半は、アイリッシュ・ハープの黄金時代でした。当時のアイルランドを描写した次のような言説があります。
「一般的に彼らはひどい音楽中毒である。アイルランドにはハープを演奏できないジェントリはいないし、すべての家に1、2台のハープがある。彼らはいつも食事の際や、それ以外の楽しみの時間にハープを演奏する奏者を雇っている」。
アイリッシュ・ハープはまた王侯貴族の間でも大変もてはやされました。エリザベス1世の宮廷にはコーマック・マクダーモットというアイルランド人ハープ奏者が雇われており、彼の作品は数点現存します。また、ダニエル・ダフ・オカヒルという盲目のハープ奏者が英国王室でアン・オブ・デンマークとヘンリエッタ・マリアに仕えていました。ダービー・スコットはデンマークのクリスティアン1世の宮廷でハープを演奏しており、ラインハルト・ティムによる肖像画が残されています。
哲学者フランシス・ベーコンはアイリッシュ・ハープの「感傷的で長い響きをもった」音色を絶賛しています。彼はまた「アイリッシュ・ハープとバス・ヴィオールはよく調和し、ウェルシュ・ハープとアイリッシュ・ハープは調和しない」と書いています。当時ウェールズで演奏されていたのは、ブレイピンが取り付けられたノイズが出るハープで、その伝統は途絶えようとしていました。1613年頃にロバート・アプ・ヒューが古いバルズの音楽を特殊なタブラチュアで記譜しました。そこにはアイルランドとの関係をほのめかす特殊な調弦法(変則調弦)や、アイリッシュ・ハープでも用いられていた装飾法が記録されています。
アイリッシュ・ハープの海外での流行とともに、楽器の構造に変化が見られるようになります。17世紀前半には弦の数を増やして、臨時記号が演奏できる改良が試みられたのです。そのような実例として「ダルウェイ残欠」があります。ネックに残されたピンの配置から、このハープは臨時記号が演奏できる楽器だったと考えられています。
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ダルウェイ残欠(1621年)
寺本が設計、製作したセミクロマティック金属弦ハープ
「大陸のアイリッシュ・ハープと英国での流行の陰り」 16世紀から17世紀前半
16世紀後半から17世紀に、アイリッシュ・ハープは大陸でもよく知られるようになっていました。
イタリアの科学者ガリレオ・ガリレイの父ヴィンツェンツォ・ガリレイは1581年にアイリッシュ・ハープについて記し、演奏家が両手の爪を長くのばして、美しくとがらせていることについて描写しています。
ドイツのプレトリウスは1619年の『シンタグマ・ムジクム』で、アイリッシュ・ハープを図像付きで解説しています。「この楽器はかなり太い真鍮の弦が43本張られており、ここから美しい響きが生まれる」と記しています。彼が記したアイリッシュ・ハープも半音階が演奏できるものでした。
17世紀末にケンブリッジ大学のトールボットが記録したアイリッシュ・ハープも43本の弦が一列に張られたもので、かなり弦数の多い楽器が演奏されていました。
17世紀後半には英国における流行も陰りを見せはじめます。ジョン・イーヴリンは日記のなかで、「アイリッシュ・ハープは、並はずれた難しさからあまり演奏されていない。だが、私見ではこの楽器はリュートやどんな弦楽器よりもはるかに優れている」「アイリッシュ・ハープがあまり演奏されなくなったことは残念だ。地位のあるジェントルマン、クラーク氏は5歳からこの楽器を学び始め一人前の演奏ができるようになった」と書いています。
「カロラン(1670-1738)の登場」 17世紀末から18世紀
一方アイルランドでは30弦から36弦の全音階のアイリッシュ・ハープが演奏され続けていました。特に、幼少期に病気やけがで失明してしまった子どもがハープを学び、旅の音楽家となる慣習が残されていました。
ウィリアマイト戦争終戦の1691年、アイリッシュ・ハープ史上最も有名なカロランが演奏家としての活動をはじめました。カロランは1670年にアイルランド東部のミーズ州に生まれた後、西部に移住します。18歳のころ天然痘にかかり、一命を取りとめたものの失明してしまいました。ロスコモンのマクダーモット・ロー夫人の助けを得て、彼は職業的ハープ奏者への道を歩むことになります。彼は各地の家を転々とし、領主をたたえる詩とハープ音楽を作曲しました。古いハープ音楽と民衆の音楽、新しいイタリアバロック音楽を融合させたユニークな彼の作品は大流行しました。旅の途中で体調を崩し、自分の死期を悟ったカロランは、初めてハープを学んだマクダーモット・ロー家に向かいます。カロランは最後に1杯のウィスキーを所望しました。そして長年の友である杯に別れを告げて、1738年の3月25日に息を引き取りました。
彼の頭蓋骨は当時地域住民に削り取られ、薬として飲用されていたといいます。現在はダブリンの博物館に保存されています。
息子のジョンはハープ奏者になり、1748年に父の曲集を出版しました(現存せず)。彼は出版の売り上げ、当時としては大金の1600ポンドを持って、父のハープと不倫相手の女性とともにロンドンに駆け落ちしました。
「アイリッシュ・ハープの斜陽」18世紀末
カロランの音楽は次の世代のハープ奏者たちに継承され、死後もその名声は衰えることはありませんでした。作家ゴールドスミスはカロランを天才音楽家として描き、英国のヘンデルに比肩する国民的音楽家とみなされるようになっていました。
一方で、聴衆の趣味の変化とともに18世紀を通してアイリッシュ・ハープは徐々に衰退していきました。イリアンパイプス(肘でふいごを押すバグパイプ)が盲人の楽器、教会で演奏される楽器としてハープにとって代わっていきました。
また、英国では3列弦のウェルシュ・ハープが流行し、ウェールズ人ハープ奏者がダブリンの劇場で演奏会を行っていました。アイルランド人ハープ奏者たちは、古い伝統音楽を忘れていき、ヘンデルやコレッリといった外国の音楽を演奏するようになったのです。
カロランの死後活躍していた盲目のハープ奏者にドミニク・マンガンという人物がいました。彼の演奏は楽器のそばまで近づかなくては聞こえないほどの「ささやくような音色」だったといいます。18世紀末にはマンガンのような繊細な表現はあまり行われなくなったようです。うるさくかき鳴らすような奏法が一般的になり、アイルランド独自の美意識は失われてしまったと考えられていました。
そのような現状を嘆いて、1792年には、ベルファスト・ハープフェスティヴァルが開催されました。このときに、エドワード・バンティングというオルガン奏者が参加しており、ハープ奏者たちの演奏を採譜していました。バンティングは採譜したハープ音楽をピアノ編曲して3巻の曲集として出版しました。また彼の手稿譜がベルファストのクイーンズ大学図書館に所蔵されており、この資料から在りし日のハープ奏者による演奏を推測することができます。
フェスティヴァルに参加した最年長のハープ奏者はデニス・ヘンプソン(1695-1807) でした。彼は古いハープ音楽を記憶していた生き字引のような存在で、伝統的な長い爪の演奏技法を固持していました。ヘンプソンの演奏していた30弦のダウンヒル・ハープは現在ダブリンのギネス本社に所蔵されています。
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カロラン (1670-1738)
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ヘンプソン (1695-1807)
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P. バーン (1794-1863)
「伝統の断絶」 19世紀後半
ベルファスト・ハープフェスティヴァルのあと、アイリッシュ・ハープの伝統は途絶えようとしていました。
そこで、1808年にバンティングらによって、ベルファスト・ハープ協会が設立されました。ここではアーサー・オニールが盲目の孤児たちにハープを教えていました。盲目のオニールは18世紀のハープ奏者たちに関する回想録を残しており、大変興味深い資料となっています。
1809年にダブリンでもハープ協会が設立され、パトリック・クインがハープを教えていましたが、2つの協会は資金難により1812年に解散しました。その後、インドにいたアイルランド人たちの援助により、第二次ベルファスト・ハープ協会が1819年に設立されました。ここではオニールに学んだ生徒であるヴァレンタイン・レイニーらが教師をしていました。この協会も1840年ころに資金難により消滅してしまいました。 1842年にドロヘダのドミニコ会修道士によって新しいハープ協会が設立されました。ここでは、第二次ベルファスト・ハープ協会で学んだヒュー・フレイザーが16人以上の生徒を教えていました。この協会が1845年に解散した背景には大飢饉があったといわれています。
第二次ベルファスト・ハープ協会で学んだ盲目のパトリック・バーンは、ロンドンやスコットランドで活躍し、アルバート公のハープ奏者に任命されました。スコットランドでは彼の写真が何枚か撮影されています。1863年にバーンが他界したことによって、アイルランドの金属弦ハープは歴史の表舞台からは姿を消しました。
実際には金属弦ハープはバーンの死によって突然姿を消したわけではありません。たとえば1879年にはダブリンでアイリッシュ・ハープ・リヴァイヴァル・フェスティヴァルが開催され、スミス氏という人物が金属弦ハープを演奏しています。また、盲目のハープ奏者ヒュー・オヘイガンが1880年まで、サムエル・パトリックが1888年まで生きていました。
1898年の新聞記事にはアイルランド南部で盲目の少女が古い金属弦ハープを奏でていた目撃談があり、「おそらく最後の生き残りだろう」と書かれています。
「新しいハープの伝統のはじまり」 20世紀
11世紀から19世紀に至るまでアイルランドでは金属弦ハープが演奏されていましたが、19世紀末からガット弦が張られた新しいハープが演奏されるようになりました。
この楽器は、それ以前のアイリッシュ・ハープと区別するために「ネオ・アイリッシュ・ハープ」と呼ばれることもあります。
20世紀初頭にスコットランドの歴史家ロバート・ブルース・アームストロングが金属弦アイリッシュ・ハープの研究を行っていました。自身も演奏法を学ぶべくアイルランドを訪れましたが、もはやどこでも習うことができず、バンティングの著作などを元に独学で演奏するしかありませんでした。この時点で金属弦のアイリッシュ・ハープの生きた伝統は完全に失われており、研究対象となる時代が始まったのです。
同じ頃、ダブリンの女子修道院で、アトラクタ・コフィという人物によってハープが教えられていました。彼女は1903年に教則本を出版しましたが、それはネオ・アイリッシュ・ハープのためのものでした。ネオ・アイリッシュ・ハープの特徴は、弦の素材が異なるだけではなく、ブレード(あるいはレバー)と呼ばれる装置によって半音を変化させることができる点が挙げられます。また、演奏技法もペダル・ハープから借用したもので、本来のアイリッシュ・ハープの演奏技法とは異なります。当然ながら、音色も金属弦ハープとガット弦ハープではまったく異なっています。1913年からアメリカのクラークがネオ・アイリッシュ・ハープを製作し、日本でも同様の楽器が製作されるようになりました。現在でもこの楽器は広く演奏されています。
「金属弦ハープの復興」 20世紀末から21世紀初頭
20世紀を通して、金属弦ハープはネオ・アイリッシュ・ハープにとって代わられました。
しかし、1980年ころにアメリカのアン・ヘイマンが古い金属弦ハープの演奏法を復元することに成功しました。彼女が1988年に出版した『ゲーリック・ハープの秘密』は、初めて出版された金属弦ハープのための教則本でした。ここには特殊な記譜法によってダンピング(消音)の技法が書かれています。
2002年には、シボーン・アームストロングを会長として、「アイルランドヒストリカルハープ協会」が設立されました。同協会では、毎年8月にサマースクールを開催し、金属弦ハープ奏者の交流や講習を行っています。アームストロングは2008年に来日し、東京と京都でトリニティ・カレッジ・ハープのレプリカで演奏会を行いました。京都では私も共演しました。
寺本圭佑は2009年にカロランアカデミーを設立し、この楽器の普及活動を展開。これまでに300台以上のハープを制作し、400名以上の方に教えてきました。このように金属弦のアイリッシュ・ハープは少しずつ演奏されるようになってきています。
寺本圭佑『初学者のための金属弦ハープ教本』(2020)より
挿絵:中井智子